昔むかし、日本のあるところに、虫が大好きな姫がおりました。ふつうの女の子は花や蝶を好むのに、姫は毎朝毎晩毛虫を手に載せて、「毛虫って、深く考えているような雰囲気があって好き」と言いながら、じっと観察していました。
また、他の女性たちは当時、眉毛をすべて抜き、歯を黒く塗っていましたが、姫は「繕うというのは、良くない態度だ」と言って、眉抜きもお歯黒もしません。白い歯のままでいるのは、今で言うとパンツをはかないのと同じくらい恥ずかしいことです。
侍女たちは虫が怖くて、また姫の変わり者ぶりを恐れて、寄り付きませんでした。それで姫は、代わりに身分の低い男の子たちを呼んで、様々な虫を取ってこさせ、名前をつけたり、虫の歌を作ったりして毎日楽しんでいました。親たちは、「女の子は蝶が好きなものだよ。虫が好きなんて世間体が良くない」とたしなめます。しかし姫は「世界の本質を追求してこそ、心が素晴らしいのよ。そして、物事の最後の姿だけでなく最初の姿から知らないと、本質は分からないわ」と言いながら「ほら」と毛虫を差し出すので、家族も返す言葉がなく、黙ってしまいました。
平安時代に書かれた、「堤中納言物語」に納められている、「虫めづる姫君」です。
さあ、周囲から「変人」として扱われたこの姫ですが、千年以上前の文章なのに、彼女の主張には納得させられます。特に、「世の本質を知ることが大事」とか、「物事の最後だけでなく最初から知らないと本質は分からない」という言葉は、理に適っており、聖書にも通じます。すべての物事の本質であり始めである神を知らなければ、私たちは世界のことが何一つ分からないからです。
一方、周囲が姫に要求したこと、眉を全部抜けとか、歯を黒く塗れという価値観は、千年経った今ではきれいに過ぎ去ってしまいました。そうなると、虫の好きな姫と、眉抜き・お歯黒の周囲の人々、どちらが本当の変人でしょうか?
過ぎ去っていく価値観や、世の要求ではなく、あと千年経っても、永遠に変わらないものをちゃんと見極めて価値を置きたい、と思った文章でした。毛虫は触れませんが。(新田優子)