いにしえのラビの格言に、「知識を持つ者はすべてを持つ」というものがある。ユダヤ人は歴史を通じて、この格言を体現し、「聖書の民」と呼ばれてきた。聖書時代から今に至るまで、ユダヤ人は故郷から追放され、敵意と憎しみの対象となっている。ただし、これらの苦難の中にあっても、ユダヤ人はひとつのことを学び取った。それは、たとえすべての持ち物を奪われたとしても、知識だけは決して取り去れない、ということだ。
聖書時代から、ユダヤ人は知識を求めることを人生に欠かせない主題の一つとしてきた。ユダヤ人は、子どもたちに教えることをおろそかにするなら、自らの受け継ぐ信仰の財産が消滅してしまうと知っていた。タルムード(ユダヤ教の教え集)の中には、「他人の子どもにトーラーを教える者はその子を産んだ者のようだ」「世界は学校の子どもたちの息によって存在している」など、教育の大切さを示した記述がある。ラビたちは神殿の再建を後回しにしてでも、教育を妨げてはならないとしてきた。
イスラエルの教育の中心は家庭にあり、その責任の中心は父親にある。そして両親ともにこの任務に従事してきた。あるユダヤ人はこう言っている。「教育は第一には親、父親に帰属する問題である。ユダヤの伝統によれば、教師は決して父親の代理人とはなり得ない。だから代理人のように教えるのではなく、厳格に教えるべきである。今の親は自分がしたいように行動し、コマーシャリズムと俗っぽさを拡声器で叫んでいるかのようだ。しかしそれでも、子どもたちは霊の声に従って生きることが期待されている。慈善と同じように、信仰教育も家庭から始まる」。
また、父親は息子にトーラーを教える義務がある。さらに、祖父にとっては、孫によるトーラーの暗唱を聞くことが自身の信仰人生の達成となる、とタルムードに書いてある。 僕が所属している菅野一族は、現在クリスチャンが四世代に渡って続いている。将来僕が結婚して子供が生まれたら、このクリスチャンの血筋を絶やさずに、聖書を教え、父親としての教育の義務をしっかり果たしたい。(北尾真徒)