創世記20章に、アブラハムの失敗のエピソードが記されています。ゲラルに滞在中、妻サラを「妹」だと偽ったために、サラがゲラルの王アビメレクに召し入れられるという危機を招いたのです。「来年の今ごろ、サラには男の子ができている」と、具体的な約束を受けた後のことです。アビメレクにとっても危機でした。神が夢に現れ、「サラを返さなければ一族もろとも死ぬ!」と警告されてしまいます。
アビメレクに非はなく、それゆえ、神はアビメレクがサラに触れることがないように介入されました。アビメレクは早速アブラハムを呼んで、「あなたはいったいどういうつもりで私の王国にこんな大きな罪をもたらしたのか」と責めています。アブラハムは「この地方には神を恐れることがない」とか「あの女は本当に私の妹でもある」とか、苦しい言い訳をしています。この場合、正しいのはアビメレク、罪を犯したのはアブラハムなのです。
アビメレクはアブラハムにサラを返し、銀1000シェケルなど多くの物を与えて、公に自分に疚(やま)しさのないことを証明します。そこで神が言われた通り、アブラハムがアビメレクのために祈ります。
この時のアブラハムは、自分のやったことにがっかりしていても不思議はありません。彼にとって、サラを妻と偽る2度目の失敗でした。それでも神はアブラハムの方に祈ることを求められたのです。契約の民アブラハムを通して、祝福が異邦人に流れるという契約に則(のっと)っているのです。
契約による義は「見なされる」義です。救われた者はどのような状況の中でも、義人としてとりなして祈る使命があります。義とされたからには、なすべきことが絶えずあるのです。悔い改めは継続して働くために不可欠ですが、自分の気持ちに捕らわれていては起き上がれません。
この後、約束通りにイサクが誕生します。義と見なされても罪を犯す私たちを、主は憐みによって見放さず、祝福を失うことがないように介入してくださいます。私たちのいのちの救いが、主にとってどれほど貴重であるかを、私たちは体験の中で知ります。 ところでアビメレクがアブラハムに与えた銀1000シェケルは、後にマクペラの畑地を買うための資金となったのかもしれませんね。(YaK)