駅で電車を待つ。バス停でバスを待つ。はたまた待ち合わせ場所で相手を待つ。こうした行為は現代に生きる私たちにとっては日常茶飯事、いや毎日の生活に組み込まれたワン▪シーンといっていいだろう。
しかし、待っている対象が遅れようものなら、すぐに心が波立つ。電車がたった1分遅れただけでイライラし、待ち合わせの時間に遅れてきた相手を理由も聞かずに罵倒する。現代人は待つのが苦手なのだろうか?
そもそもなぜ「待つ」という行為が始まったのかを考えてみよう。「待つ」ことにはその基準となるものがなくてはならず、それは時間(または時刻)である。いつ頃から始まったのかは知らないが、時計の発明により時間の観念が生じ、以来私たちは時間に縛られ続けてきた。その一方で、日本の鉄道は世界一正確とか、分刻みの多忙なスケジュールをこなす人が現代人の鑑(かがみ)などと賞賛される風潮さえある。
兎に角、現代人は時間に追われて(或いは支配されて)忙し過ぎるのである。まだ時計などなかった古代の頃、人々は太陽の位置や周囲の明暗によって時を知った。太陽が中天に来たらそろそろ昼食だとか、暗くなったら寝る準備というように。時間に追われる現代の生活に比べれば遥かに人間的というか、神が創造された大自然のなかに生活の営みがすっぽりと収まっている、言わば御心に叶ったものであっただろう。
さて、本題に戻ろう。アブラハムや族長たち、多くの預言者など旧約聖書に登場するいにしえの聖徒たちはどうだったのだろう。その答えを知る手掛かりとなる聖書の記述がヘブル人への手紙のなかにある。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え」(11章13節)、信仰を棄てることなく、約束されたメシアを待ちつつ死んでいったというのである。その約束が実現するのは、何と二千年後である。私たちは「待つ」ことにおいて、大いに彼らに倣いたい、と思う。(菅野和彦)