ひとりの人の救いには大抵複数のクリスチャンが関わっているといわれます。先日、受洗記念日を迎え、自分が信仰を持つまでに出会ったクリスチャンの方々を思い出していました。母の受洗前から私も教会へ出たり入ったりするようになり、小学生の頃からクリスチャンと接する機会があったのですが、今でも特に覚えている方たちがいます。子どもクリスマス会に誘ってくれたアメリカ人宣教使夫人。教会学校にいたとびきりやさしい笑顔の双子のお兄さんたち。松原湖のバイブルキャンプで、涙ながらに私のために祈ってくれた高校生のお姉さん。親を喜ばせるために洗礼を受けるのは勧めないと言ったキャンプカウンセラー。はっきりと福音を語った方もいましたし、親切な行い、励まし、助言をくれた方、長く文通をした方もいました。たった一度しか会わなかった方、名前や顔がはっきり思い出せない方もいますが、数えきれないほど多くの方たちがいました。そして、私の知らないところで祈ってくださった方たちも多くいたはずです。
決定的に信仰をもつきっかけとはなりませんでしたが、クリスチャンの言葉や行い、あり方がその時々で心に留まることがありました。聖書では、人々がイサクやヨセフを見て、神が彼らと共におられることがわかったとあります。クリスチャンの人生には、主が共におられることが明確に現されるのです。
まだ主を知らない、信仰を持たない人たちにとって、クリスチャンである私たちがイエス様、聖書を表すと言えるでしょう。伝道の達人である必要はないのです。私たちが意識しようとしまいと、主は共におられます。私たちを通して、主が表われてくださいますように。先にクリスチャンとなった私たちを見て、主が共におられる人生を歩みたい!と周りの人たちが神さまを求めるようになることを願いつつ、今日も与えられている人間関係を大事にして、少しでも救いのために関わる者でありたいと思います。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)(江口知子)