長野県を席巻しているツルヤというスーパーマーケットがあります。県民だけでなく旅行者にも愛され、繁盛しています。私も3日一度はツルヤで買い物をします。ときにはイオン、西友、BIG、ベイシア、デリシア、業務スーパー、カワチなども利用します。
さて佐久に来て9か月、私はレジを通るたび、「こんにちは」と声かけてきました。しかし、一度も挨拶が返ってきたことはありません。マニュアル通り、「いらっしゃいませ」と言うだけで笑顔もありません。決して不親切な店員さんではありません。むしろ親切です。その親切に「ありがとう」と言うこともあります。ただ、やはり笑顔の応答がないのです(ただJA販売店のレジのおばさんは、挨拶すれば倍返って来る)。
それが県民性だとも聞きましたが、私はそろそろ市長に投書しようかと考えています。「移住者を歓迎しないと佐久市の将来はありません。挨拶しないのは県民性などと言っている時ではないのです。長野県人である前に、同じ日本人ではありませんか。日本人である前に人間ではありませんか。挨拶の言葉がない国はありません。人間は笑顔で挨拶し合って人間なのです。佐久市が笑顔で挨拶し合う町になることを願っています。そうなれば人口はさらに増えます。」
それは教会にも言えます。いや、教会こそそうあるはずです。同じ主を信じる兄弟姉妹なのですから。
イエスさまはルカ10章の「善きサマリヤ人」のたとえで、「誰が私の隣人か」ではなく、「私が隣人になる」ことを教えられました。隣人を選ぶのではなく、自分から隣人になっていくのです。その「隣人になる」ための第一歩が笑顔の挨拶です。
私は多くの教会を訪問してきましたが、隣人になろうとはしない教会が少なくありません。礼拝に来てはいけないのかと思わせる教会すらあります。これでは教会が衰えていくのも当然です。
私は明日も、ツルヤのレジ店員さんに挨拶の言葉をかけます。挨拶をしない空気に飲み込まれません。教会ではなおさらです。
*この原稿を書いて1週間後、遂に一人が笑顔の挨拶を返してくれました。アイガッタワン。