草むしり

先日、久しぶりに佐久を訪ね、畑の草むしりをしながら、「楽をすることや、効率と利便性だけを求めるだけの社会と、その『無意味さ』によって現代人は病む」と日曜日に聞いた難問を思い巡らしていました。「無事であろうとするだけの」生き方は「無意味」。「困難や苦難の中に、意味を見出していくのが、人間」。

そう言われてみれば、私の生活はいつから草むしりのない楽なものになったんだったか。アスファルトやコンクリートで固めた街に住み、除草剤で植物を枯らし、農薬によって整った野菜を安価に食べている。便利になって、楽になって、私の人生は豊かになった・・・?

島根に住んでいた頃は、毎日水やりと草むしり、「落葉()き」がありました。面倒で、面倒で。夏には朝から、億劫な町内草抜き大会。

しかし、畑の草むしりをしながら、「野菜の芽と雑草の見分け方」や、花の名前、食べられる雑草と毒のあるもの、薬草になるもの、それぞれ根の形と対処の仕方、ずる賢い雑草たちとの知恵比べなど、学校では学ばない小さなことを知るのが楽しかったのを思い出しました。面倒な草むしりをしながら自然と学んだことがある。

町内の草抜き大会だって、ご近所さんと会話しているうちに、今度BBQしようとか、たくさんもらったからお裾分け〜などと交流が始まり、一緒に町に住んでいる一体感につながっていた、ような。

そして、今、一人で草抜きをしながらあれこれ黙想するこの時間の尊さ。土にふれ、自然に戻るような、被造物の一部になっているような一体感がとても心地よく、頭がスッキリとする。雑草なんてこの世から消えていいものだと思っていたけれど、ほどよい困難で私を訓練し教えてくれていたのかもしれない。生活から消えた草むしりを思いながら、「いかに苦しまず、楽をするか」だけを求めて怠ける道は、豊かになると言うより、生きる意味を失っていくのかもな・・・と思ったんですけど、どうなんでしょうねぇ?

(川端真亜沙)