光と闇

先日、三回目の能登ボランティアに行った。毎回車で金沢に向かうのだが、新潟を過ぎたあたりからトンネルの連続である。日本は山の多い地形なのだなあと実感する。U牧師は「トンネルは闇に吸い込まれそうで怖い」と言われていたが、確かにトンネルの中は昼でも電燈がなければ真っ暗だ。時にはトンネル崩落の事故もあるし、実際怖い。

 私はいつもトンネルの中で、ひたすら出口が見えてくるのを待ちながら前を見つめている。長いトンネルもあれば短いトンネルもあるが、出口がないのではと心配したことはない。出口の小さい光がだんだんと大きくなって来て、ついにトンネルを出た時の爽快感は結構好きである。出口に到達するためにトンネルに入って行くと考えるなら、むしろ楽しみでもあるかもしれない。振り返ると、トンネルの中は暗闇だ。

 神様が光を造られた。そして、「神は光とやみとを区別された」(創世記1:4b)

私は以前、暗闇の中を生きていたが、一方的な恵みによって光に入れられた。その時は、自分が暗闇の中にいるとは気づいていなかった。しかし光の中に入れられた時に初めて、自分が暗闇の中にいたことが分かった。それはとてもぞっとすることだ。

暗闇と光ははっきりと分けられている。

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」(Ⅰヨハネ1:5a)

私は光の子として歩むように召された。でも光の子らしく歩むことは時にくじけそうになることだ。たびたび灯りのないトンネルに入ってしまったような、閉塞感や暗闇に閉ざされてしまったような気がすることがある。日々の出来事によって自分の感情に振り回されてしまうような時だ。暗闇の力とは自我、自己中心の罪とも言えるかもしれない。暗闇が光を駆逐しようとしている。しかし、出口は必ずある。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)

最大の暗闇、罪の結果である死に勝利されたイエス様の光は変わらず輝いている。イエス様がトンネルの先に待っていてくださると信じて、永遠の光を目指して進み続ける。暗闇に連れ戻そうとする力は飽かず働いているが、それに目をくれず、勝利されたイエス様から目を離さずにいれば、必ず光の中にいる喜びが戻ってくるだろう。そして光の中で光の子として生き続けたい。(きのつらユキ)