岡崎藩水野忠善の家臣宮部小弥太は、28歳なのに夜一人で歩けないほどの臆病者でした。それを克服しようとあれこれ修業をしましたが、生まれ持った性分はどうにもならず、あきらめました。むしろ身分が低く、大きな役目を受けずに済むことを喜んでいました。
ある日、武芸に優れた河原勘兵衛という武士に果し合いを挑まれました。小弥太は腹をくくり、勘兵衛を走り回すという戦術に出て、疲労困憊させ立てなくしてしまいました。
その光景をたまたま見ていた主君忠善が、小弥太を尾張領名古屋城下偵察に連れて行くことに決めました。ところが道中、小弥太はそわそわして何度も姿を消します。忠善ともう一人の家臣は、小弥太が臆病風を吹かせて逃げたのではと思ったほどでした。
さて、名古屋に着き、三人で城の堀の深さを密かに計っていたとき、城内の侍に見つかってしまいます。見つかったことにいち早く気づいたのは、臆病な小弥太でした。小弥太は、右も左もわからぬ名古屋の町の狭い路地から路地へと主君を導き、予め備えていた3頭の馬を引いてきて「殿、早くこの馬に」と促します。
逃げる主従三人を、追っ手も馬で追いかけてきます。三人は追い付かれそうになると、小弥太が宿場に用意しておいた三頭の馬に乗り換えます。次の宿場にもその次の宿場にも用意してありました。こうして三人は逃げ切ることができました。名古屋への道中、たびたび小弥太が姿を消していたのは、逃げるための馬を用意するためだったのです。藩主は、それに気づいて感嘆します。臆病ならでは配慮です。
この手柄で、小弥太は50石から250石に加増され、出世し地位も上がります。しかし、臆病な小弥太はそれが重荷になり、岡崎藩から逃げ出すこと決め、妻に「武士を辞め、お前と二人で八百屋か魚屋にでもなって安らかに暮らしたい」と告げます。妻は、臆病ではあるが誠実で正直な夫を敬っていました。そして、夫を励ますのです。
妻は台所から野菜切包丁と魚を捌く出刃包丁の二本をもってきて、「包丁にもそれぞれ役割と使い方がある」と語ります。また、「果し合いで、あなたはあなたの戦術で勇猛な河原官兵衛に勝たれた」と説いていきます。妻に諭されて、小弥太は心が熱くなり、「臆病だから役に立たないと言うことはない。臆病には臆病の生きる道がある。自分の生きる道が見えてきた」と250石の出世を受けることに決めました。
「神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました」(Iコリ1:27)。それが主の「人の生かし方」です。