災害時、宣教か支援か。神の愛か義か。被災者が最も必要としているものを差し出すのか、私たちがクリスチャンとして最も差し上げたいものを差し出すのか。どちらを優先にして活動するのか。それが先週の問いでした。では、主イエスはどうされたのでしょうか。
福音書には、最初から信仰を持って主イエスに近付き、癒された事例(盲人バルテマイ、長血患いの女など)や、主が一方的に憐れみ、その信仰を問わずに癒された事例(その後その人たちが信仰を持ったかはわからない)がたくさん出てきます。
その一方で、まずその人の信仰を問われて癒された事例もあります。たとえば、「二人の盲人」には、「わたしにそんなことができると信じるのか」(マタイ9:28)と、彼らの信仰を確認してから癒されています。また、霊に憑かれたの息子の父親にも、「できるものなら、と言うのか」と問いかけ、「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ9:22、24)という信仰を引き出してから、霊を追い出しておられます。逆に、まず障害や病を癒されてから、信仰に導かれた事例もあります。ヨハネ5章の「38年間伏せっていた男」や、9章の「生まれつき盲目の人」の場合などです。
主はどうも臨機応変になされたように思われます。私たちも、都会と田舎の地域性や、個々人の心の状態に応じて、まずは相手の必要に応えていくか、こちらが差し出したいものを差し出すかを祈り求めて、判断すべきなのだろうと思います。地域と関係作りも大切です。しかし、場合によっては、即、救いに導くために悔い改めを説くケースもあるでしょう。
いずれにせよ、教会は被災者のたましいの救いを最終ゴールにし、それを外してはならないと信じます。それを常に念頭において、判断し、行動すべきでしょう。そのために、被災した人たちの痛みをともにしながら、被災した人たちに代わって悔い改めの祈りをささげるべきです。