それまでどおりに生きる

「ハワイへ行こうか。」癌で余命数か月と宣告された牧師は妻を思ってそう提案しました。しかし、妻の答えは、「あなたは以前講壇で、もし余命数ヶ月とわかっても、それまでどおりの生活をする、と言いました。そのとおりにしてください」でした。思い出作りはいらない、ということです。また、妻は「先に天国へ行ってしまうあなたはいいですよ。残される私たちは、まだ地上で生きていかなければならないんです。あとのことを整えてください」とも。こんなことがクリスチャンは平然と言えるのです。クリスチャンでなければ理解できないことかもしれません。
 近年、葬儀で亡き骸に接するたびに、棺に納まった自分自身の遺体を想像してしまいます。もうそんな年になったのです。自分だけが見つめられていて、自分はもうそこにいないのは不思議な感覚です。でも天に召されるクリスチャンは、そことあそことがつながっていることを知るでしょう。
 山本七平は、病気で生死をさまよって意識を回復したとき、苦しみ呻いていたと家族から聞かされました。しかし、山本自身にはそんな苦痛の記憶は全くないどころか、安らかだったというのです。肉体は苦しんでいるようでも、たましいは安らかである、つまり肉体とたましいは別の感覚を持っているようなのです。クリスチャンが天に召されるとき、たましいはみな安らかなのです。地上の神の国と天の神の国とはつながっているので、救われたたましいが地から天に移されるとき苦しまないのは当然のことでしょう。
 エノクは365年神とともに歩み、死を経験せずに、神に取られました(創世記5:21-24)。エノクはまさに天と地が一つになった神の国を生きていたのでしょう。体は地上からは消えてなくなりますが、たましいは同じ神の国に生きているのです。クリスチャンの死は、実質、エノクに起こったことと同じです。それゆえ、妻が、「これまでどおりの生活をしてください」と牧師である夫に言ったのはやはり当然だといえます。