神の国の文化「愛」(2) 「キリストの愛に安らぐ」

「自分などこの世にいなくてもよい。人生には何の意味も価値もない」という現代病の治療薬は、神の愛、キリストの愛だけです。
それは人間の愛ではありません。人間を通して表わされる神の愛であっても、人間自身の愛ではありません。人の愛は条件が変われば、変わります。そのときその場の感情で揺れ動きます。高潮したり冷めたりします。時には愛が憎しみにとって替わり、怒りという感情の爆発にもなります。人を愛しているようでも、結局は自分を愛しているに過ぎなかったりもします。人の愛は全知全能ではありませんし、そして、いつかは止みます。「愛されたい」という人間の本能的な欲求は、人間の愛では満たされないのです。
人間は自己中心で、罪の誘惑に弱く、したくない悪を行い、したい善が行えない惨めな生き物です。なのに頑固で高慢だという厄介な存在です。「自分を愛せよ」という心理学の教えがはやりましたが、自分で自分を愛したからといって、自分の渇いた心を癒すことはできません(むしろ「自分を愛すること」は罪です。Ⅱテモテ3:2)。人間はそんな生易しい生き物ではないのです。それは誰もが実感しているはずです。
しかし、神の「愛は決して絶えることがありません」(8a)。私たちが変わっても、神の愛は不変です。神に反抗しているときも、悔い改めて神に立ち返れば、そこに変わらず神の愛があります。しかも、神の愛は全知全能です。私たちの心の中の醜さも知った上で愛しておられます。神は独り子をお与えになったほどに私たちを愛されました。キリストは、厄介な私たちを救うために自分を身代わりにされました。それほどの犠牲を払われた愛を、神自身がむだにはなさいません。
この神の愛に触れ、その深さ・広さを知り、受け入れるまでは、人の心は安らぎを得ることはできません。神の愛以外には人の渇きを癒すものはないとわかっているのですから、他のものにふらふら誘われて迷い出ず、神の愛に焦点を定めませんか。