「愛は怒らず」といっても、怒らなければ愛というのではありません。怒りは愛と義を表わす手段でもあります。怒るべきときに怒らないなら、愛も義もありません。
父なる神は怒られました。神は愛であると同時に怒りの神でもあります。神が怒られるとき、愛と義は一つです。神の怒りは、人の不義を懲らしめて正し、人を永遠の滅びから救います。たとえば神は、ご自分の民イスラエルを「永遠の愛」(エレミヤ31:3)で愛されましたが、彼らが偶像礼拝を止めないので激しく怒り、彼らの国を滅ぼされました。その結果、彼らは偶像礼拝をしない国民として生まれ変わり、祝福を回復したのです。また神は、人の罪に対する激しい怒りを独り子キリストにぶつけられました。この神の怒りで、私たちは滅びから免れました。十字架に表わされた神の怒りは、私たち罪人に対する愛の表現の極致です。
では、「(愛は)怒らず」とはどういうことなのか。それは「自分の利益を求めず」を受けての「怒らず」であって、愛は自分の損得で怒ることはしない、ということです。自分かわいさの怒り、自己中心的な怒り、そんな「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」(ヤコブ 1:20)。結局は自分を愛している(Ⅱテモテ3:2)だけなのです。また、神を愛し、人を愛し、人を守り助けるための怒りであっても、感情に走りすぎて、人の心を壊してはなりません。パウロは、「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペ 4:26)と教えています。
あなたの怒りの背後に何がありますか。それで、その人が何を大事にしているか、またどの程度利己的かが、ある程度見えてきます。私の次男は、私が調理した「なまこの酢物」をひっくり返し、ひどく怒られたことで、「父はなまこが大事なんだ」という記憶を残しているそうです。忸怩たるものがあります。
怒りそのものは罪ではありませんが、「刃物」です。怒りの感情は、注意深く自制しましょう。怒りは愛を表現する手段として大事に扱いましょう。