預言者イザヤがユダの王ヒゼキヤに主の裁きを告げます。「あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい」。王国が滅びる日がやがて来るといっているのです。それに対してヒゼキヤは応えます。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい」。耳を疑うような返答です。いったい何がありがたいのか。それは、「自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか、と思ったからである」(Ⅱ列王記20:16-19)。
この聖書の故事から、「自分の生きている時代さえよければ、後の世代のことはどうでもいい」という生き方を、私は「ヒゼキヤ病」と呼びます。とにかく今が大事、今だけを考えて行動し、その結果、明日がどうなろうとかまわない、と考えるのです。時代だけのことではありません。「自分たちの住む国や地域さえ安泰なら、ほかの国や地域はどうなろうと知ったことではない」とも表現できます。
現代世界も「ヒゼキヤ病」が蔓延しています。政治家や役人にも実業家にも学者にも、この病気に侵されている人は少なくありません。目の前の問題の対処と自己保存にしか関心がない人たちです。「ヒゼキヤ病」が深刻な時代や社会というのは、末期症状にあります。
クリスチャンはそうであってはなりません。「将来の日本人は今の私」「2、30年後の教会とは私のことなのだ」という考え方をすべきです。2、30年後には、この世にはいないだろう人も(私もですが)、そう考えましょう。教会は、そうやって信仰を継承してきたのです。私たちは次世代に信仰の遺産――目に見えるものも見えないものも――を受け継がせなければなりません。また、また地域全体や諸教会にも目を向けたいと思います。どんなに自分だけ栄えたとしても、神の国全体から見れば微々たることです。
とはいえ、神の国は、日々の祈り、御言葉の学びという地道で小さな活動の積み重ねで成長します。夏も怠りなく。