私たちは、信仰と行いを分けて考えることに馴染んでしまっています。しかし、聖書は信仰と行いは一つだと教えます。信仰と行いとは切り離せず、信じるとは行うことです。
創世記15章6節に、「彼(アブラム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)とあります。旧約聖書の原語はヘブライ語ですが、「信仰」は「エムナ」といいます。「エムナ」とは、単なる知的、心理的、精神的な活動にとどまるものではなく、行いをも含んだ活動です。
新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、「エムナ」は「ピスティス」と訳されました。ところが、「ピスティス」は心の中の純粋な精神活動で、実践を含みません。つまり、信仰は心の中だけのものとみなされるようになったのです。
本来、「信仰」は、心だけではなく体(行い)にも表れて初めて「信仰」です。信仰と行いは一つ、それが「エムナ」です。「彼(アブラム)は主を信じた」。そして長年、約束の子を待ち続けました。そうして与えられたイサクを、主の命令に従い、モリヤの山でささげました。信じることと行うことが一つです。それがアブラハムの「信仰」です。モーセやダビデらも同じ「信仰」を持っていました。
新約聖書で、パウロは「信仰のみで義とされる」と唱えましたが、それは「律法を完全に守りおこなうことによって義を達成しよう」とする誤った信仰への反論です。パウロは信仰が行いと一致せずともいいと言ったのではありません。実際、パウロほど信仰と行いが一致していた人はいないでしょう。そして、ヤコブは「信仰と行いは一つである」という、本来の「信仰」の回復を強調したのです。
「結婚している」なら、「夫婦一緒に生活している」とふつう考えます。「別居している」「一切会話がない」という状態は異常事態です。「信仰」についても同じです。信仰と行いが「別居」しているなら、「信仰」として機能していません。「同居」していてはじめて「信仰」といえます。それが罪人が義と認められる「信仰」です。