明治初期から、多くの欧米の学者たちが明治政府の招聘を受けて日本に来ました。彼らは日本に招かれてきたのであり、日本のニーズ(必要)を満たすために尽くしたのです。
しかし、キリスト教の宣教師たちは違いました。幕末期の宣教師ヘボンやバラらは、日本人に「ぜひとも伝えたい」ことがあってやってきたのです。日本から「ぜひ伝えに来てほしい」と頼まれて来たわけではありません。宣教師たちはミッションスクールも建てました。ぜひとも教えたいことがあったからです。日本のマーケットリサーチをし、「ニーズがあるぞ、採算が立つ」ということで学校を建てたのではありません。
福音を商品にたとえることがあります。福音が商品なら、消費者のニーズに合わせて、買ってもらいやすいように作り変えるか、気に入ってもらえる部分だけを切り売りすることにもなります。しかし、福音は商品ではありません。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタイ28:19、20)。このキリストの大宣教命令は、採算を考えてはいません。相手のニーズに合わせることも考えていません。採算がとれなくても、相手が要らないと言っても、宣教するのです。宣教はある面、おせっかいです。伝道されたい人がいなくても伝道する、それが大宣教命令です。
日本の教会は世の人たちのニーズに応えず、自分たちが伝えたいことだけを伝えているから成長しないのだ、という人たちがいます。そして、世の哲学や心理学を取り入れ、「福音を焼き直して」説くことがはやりました。今も、根強く残っています。でも、そうやってヨーロッパの教会は廃れてしまったのです。
私たちは「今どき、復活を信じているのか」といわれても、聖書に書かれているがままを伝えます。「永遠のいのち」がかかっているからです。