神の国は共同体主義(上)

1990年代から、日本の集団主義では世界の競争には勝てない、「みんな仲良く」では生き残れない、自己を主張し、自分の考えをはっきり言える欧米型個人主義の人間を育てよ、という方針がとられるようになりました。つまり、独りでリスクを背負い、責任をとり、競争を勝ち抜き、勝ったら利益は独占するような気概を持った強い個人を育てなければならない、ということでした。弱者を守っていた制約が一つ一つ取り払われ、市民の自由な競争の時代になったのです。
その結果、「勝ち組、負け組」に分かれ、貧富の格差は拡大し、貧困者層が増えました。かつては貧困家庭の子女でも努力すれば高等教育の門は開かれていて、日本人の80%が中流意識を持っていた時代がありました。高度経済成長期です。しかし今は、貧困家庭の子女には、高等教育の道が閉ざされ、貧困が貧困を生むという時代になってきています。人材が埋もれる時代でもあります(日本は、それでもまだまだ格差の小さい国ですが)。
ところで、聖書は個人主義ではありません。共同体主義です。モーセの「祭司の王国」は、神の国のひな型ですが、貧困が共同体を崩壊させないような律法が定めてありました。
貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない(申命記 15:11)。
落穂拾いの権利や、50年に一度の「ヨベルの年」(レビ25)も、貧困者救済の制度です。イスラエルは神と、世界を祝福するという契約を結んだ民族ですから、その共同体は信仰的にも経済的にも健全でなければなりません。貧富の格差が増大し、貧困家庭が増えれば、神の国として、祝福の源となるという働きができなくなります。モーセの律法は、そうならないための神の配慮でもあったのです。
教会も、個人個人が神の国の祝福を受け、霊的にも、品格や賜物においても、あるいは経済的にも豊かになって、人々を祝福する役割を負っています。