こんな話を聞きました。
夫と二人の子がいる女性が交通事故で足を失い、不自由になった。彼女は、夫のお荷物になったことが耐えられなかった。
「私のために苦労するわ。私なんかいないほうがいいでしょ」
「ばかなことを言うなよ」。夫はこの言葉を聞かされるたびに腹が立つ。
しかし、妻は止めない。「あなたと子供たちのためには、五体満足な女性が側にいるべきだわ。だから、私を捨てても、私はあなたを憎まないわ。」
「そんなこと絶対ないよ。君はとても大切な存在なんだから。」
夫は、自分も子供たちも彼女を愛していることを、とくとくと言い聞かせるのが常だった。しかし、それでも彼女は命を絶った。「家族の重荷になりたくない」という遺書を残して。彼女は愛されているのに、愛を受け入れなかった。
ところで、彼女の方は、夫や子供たちを愛していたのであろうか。愛していたら、決して命を絶ちなどはしなかったであろう。・・・・
彼女は、何もせず、人に愛されて生きることが我慢ならなかったのでしょう。「自分は愛されるにふさわしくない。愛されるには、愛されるにふさわしくなければならない。ふさわしくないのに愛されるのは嫌だ」。これは傲慢です。
自分で自分を愛せるほどの価値がなければ、自分を許せないというのは、自己愛が強すぎます。聖書では、自己愛は罪の一つに数えられています(Iテモ3:2)。「家族の重荷になりたくない」というのは、家族を愛しているのではなく、本当は自分を愛しているのです。自己愛の強い人が、人を愛するのは難しいと思います。
キリストが十字架で人の罪の身代わりとなってくださったという愛は、あまりにも大きすぎて、へりくだらなければ受け入れられません。自分はふさわしくないからといって、神の愛を拒絶するのは傲慢なのです。神の愛を感謝して受け入れることから、人を愛する喜びも始まります。