私は、自分が最も大事だと信じていることを選び取らない傾向が残っています。
一番大事なことよりも、自分の好きなことを選び取ってしまうのです。
人生で最も大切なことより、今しなければならないと思うことを優先し、とにかく片づけてしまうこともあります。
自分が最も愛しているイエス・キリストと語り合うよりも、自分の好きなことに先に手を付け、しかも多くの時間を使ってしまうこともあります。
イエス様と直接向かい合う(祈る)より、間接的に向かい合うこと・・・たとえば、聖書の学びの準備、教会のお仕事、聖書に関する本を読むこと、メールに返信すること、こうして原稿を書くこと、人のお手伝いをすること、など・・・を最初にしてしまう日もあります。そして、イエス様のために、イエス様のことをしているんだからと、言い訳するのです(みなさんはどうですか)。
そのようにイエス様と間接的にも関わり合うことは、悪いわけではなく、むしろいいことです。しかし、どう弁解しようと、イエス様が最も望んでおられることではありません。
イエス様が一番に望んでおられることは、まず、すべてのことを置いて、イエス様と直接、向かい合い、語らうことです。これがイエス様に最も喜ばれることであり、私自身も最も大事だと信じていることであり、そして私の魂の最上の喜びなのです。
なのに、魂が喜ぶことよりも、体や頭が好きなことを先にしてしまいます。なぜなのでしょう。「私は自分のしていることがわかりません。」「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、感謝します」(ロマ7:15、24)というパウロの気持ちに重なり合います。
一番大事なことが、一番好きで、一番の喜びとなっている人は幸いです。主の祝福の道を真っすぐに歩んでいる人です。私の場合、そういう人に変えられる格闘が、生涯続きます。