GCCは、開拓以来、信徒の方々の自由な活動を尊重する牧会を目指してきました。
まずは組織を作り、そこに人を当てはめていくというようなことは極力避けてきました。やりたい人(ビジョンを持った人)がいて、その人が動いて、働きやグループが生まれました。最初に人ありきです。
今、ヒンビーからカレブ、ミルトスまで、年齢別、男女別(一緒)のグループが10以上ありますが、どの一つをとっても、牧会部主導で始まったものはありません。始めたい方々が、それぞれ仲間を募って始めたのです。賛美チームJOY!(ヤングのチームも)や「きしゃぽっぽ」やユース礼拝(WAKE)などの活動もそうです。礼拝のお花当番もそうです。牧会部は、それを承認したりサポートしたりするだけです。もちろん、牧師が個人として発案し、始めたものもあります。HOP(祈りの家)やS(スキット)メッセージ、御言葉と祈りの時(水曜祈祷会と土曜礼拝を4月から改名)などです。
すべての奉仕や活動は、主と自分との関係において、自ら喜んで楽しく、自由に行うべきだからです。モーセ時代の幕屋造りの際も、主は「すべて、心から進んでささげる者に、主への奉納物を持って来させなさい」(出エジプト35:5)と命じられ、民はその通りにしました。そして、奉納物が有り余り、持って来るのを止めさせるほどでした(36:6)。「心から進んで」行う、それが最も望ましいことです。そこには不平不満の余地がありません。
しかし、教会員が自由に活動すれば、士師記の時代のように「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」(21:25)という事態に陥る危険性があります。そうならないために、GCCは当初から、御言葉の学びと祈りを最優先にしてきたのです。それが「主の目にかなう」(I列王15:5など)判断の枠組みを作ります。教会員の自由な活動を保証するのは、教会の御言葉の学びと祈りです。
とはいえ、教会全体が一つになって、大きなプロジェクトに取り組むべき時が来ていることも事実です。21日の「ビジョンを語る会」でも、そのことは取り上げられました。それは、また次週に。