「外見が実年齢より若く見える」といわれると、たいていの人は喜びます。しかし、私は違います。
昨年秋、初対面の70歳の牧師と談話する機会があり、「同い年ぐらいですか」と言われました。「いいえ、63歳です」と答えると、「それは失礼しました」と返されました。「いえいえ、全然。むしろ同い年と思っていただいて光栄です」。そうなんだ。私の成熟度は、実年齢を超えているのだ。と勝手に解釈し、誇らしくさえ感じました。
私は20歳の時、30歳くらいに見られました。そのころは、老けて見られるが嫌でした。しかし、40歳のころからは、外見は老けて見られても、精神レベルが実年齢についていけていない自分を感じ、むしろ忸怩たる(ジクジ恥じ入る)ものがありました。
若いころの私がもっていた60歳のイメージは、老成して言葉数少なく、温厚で冷静沈着というものでした。しかし、実際に60過ぎても、そんなかけらもないと感じます。老成した自分を演じてみても、付け焼刃ではどうにもなりません。
しかし、70歳の牧師と構えずに会話して同年代と思われたことは嬉しかったのです(ただ老けて見えただけじゃないのと、ツッこむ人もいるかもしれませんが)。
私たちクリスチャンは、外見が若く見られるより、実年齢より成熟していると評価されることを求めましょう。特に若い人たちは、聖書の言葉と祈りで、霊的感性を養い、価値観を築き、洞察力を身に着けるようにしてほしいと思います。毎日、食べている物があなたの体をつくるように、毎日心に取り込んでいるものがあなたのたましいを建て上げます。少ない語彙の使いまわしで、ネットや会話をしていると、思考能力も品位も落ちますよ。
ヘブル書は語ります。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています」(5:12)。年数が人を大人にするのではないのです。若いうちから、聖書の教師になることを目指してください。そして、年齢よりも、精神的に成熟しているね、と感心されるように。