パウロ自己紹介(エペソ1・1)

「神の御心によるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。」(エペソ1・1)

「神の御心によるキリスト・イエスの使徒」とはパウロの自己紹介です。この言葉には、人ではなく神に選ばれて使徒として立たされた者であるという自覚と、また自分の能力によって立ったのではないという謙遜さがあります。パウロは他の書簡でもほぼ同じ表現をしています。パウロにとってエペソの人々に深く知ってほしいのは自分のことではなくキリストのことですから、この短い表現で十分なのでしょう。
私たちは自分を語りたがります。キリストより自分を前に出してしまうことがあります。自分が今まで身につけてきた学歴、経歴、経験、財産、地位、能力、業績について、聞かれもしないのに吹聴したくなります。が、そうしたものは自分のうわべを飾るものであっても、自分の本当の姿ではありません。人格とは、それらが取り除かれた後に見えてくるものです。そのとき私たちに何が残るでしょうか。その残るものが本当の自分なのです。
パウロは自分からすべてが取り除かれても、「神の御心によるキリスト・イエスの使徒」としての自分が残ると言えました。それがパウロの存在のすべてです。だからそれ以上の自己紹介をする必要はありませんでした。もちろんパウロにもこの世にあって誇れるものがありました。ユダヤ人であること、ローマの市民権があること、律法学者ガマリエルのもとで学んだ秀才であること、幾つも教会を建てたこと、数え切れないほどの苦難を味わったこと・・・しかしパウロは、それらをキリストのゆえに取るに足らないもの、いやゴミのようにみなしていたのです。
私たちも自己紹介するときは、パウロのように本質だけを簡潔に書けばいいのですが、さすがに「神の御心によるキリスト・イエスのしもべ」とは言えません。しかし、私たちは人生をキリストだけで生き抜く決心をした者です。社会的要請で自分の経歴を書くときも、それはキリストの前にはチリやゴミのようなものであるという認識と、自分の肩書きは「キリスト・イエスのしもべ」だけだという謙虚な自覚を持っていたいと思います。