「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1・4)Ep05
これは3節に記されている「霊的祝福」の一つです。つまり私たちは、天地創造以前に神に選ばれ、覚えられ、そしてこの21世紀に生かされているのです。
人間としての存在は、母の胎内から出た時ではなく、卵子が受精した時から始まります。受精卵の時に、あなたはどういう人間になるのか、生物学的には決定されています。しかし、聖書はさらに一歩進んで、あなたは母の胎内で形造られる前から神に選ばれていた、いや神の「心」の中ではあなたという存在は天地創造以前に既に始まっていた、というのです。これは想像を絶することです。
そのような私たちを、神が愛してくださらないはずがありません。実際、神は私たちを、「聖く、傷のない者」、完全な者にしようとされたのです。私たちはその神の計画の中で造られた尊い存在なのだということに気付かなければなりません。私たちが聖くなく、傷のある者なら、それは神の計画されたことではないのです。
しかし、たとえ今、私たちが汚れ、人間としての尊厳を失っていたとしても、神はそれでもなお、「聖く、傷のない者」にしようと計画されています。私たちの状況がどんなに絶望的でも、神がその天地創造以前からの計画を放棄されることはありません。問題は、私たちがその計画に参加するかしないかです。
どうしたらその計画に参加できるのか。それは「キリストのうちに」選ばれているのですから、キリストを信頼しキリストに留まり続けることです。あなたは、神が愛なら、手っ取り早く解決してくれと言われるかもしれません。しかし、神はあなたに「神を信頼して待ち望む」とはどういうことなのかを学ばせようとしておられます。信仰とは、人間の力では無理だとあきらめてしまったその「あきらめ」を突き破って、なおも神に信頼していくことです。たとえ絶望的でも、神にはすべてのことが可能だと信じていくことです。