?「オンリーワン」は人間の尊さの根拠にはならない

 ◆「オンリーワン」は人間の尊さの根拠にはならない

 あなたはナンバーワンでなくてもオンリーワン、つまり、この世にあなたという人は一人しかいないから尊いのだとよく言われます。なんとなくそんな気にさせられてしまいますが、よく考えてみると、その言葉のもつ情緒的な力にはぐらかされているだけだということがわかります。「世界でただ一つ」であれば、本当に尊いと言えるのでしょうか。「世界でただ一つの存在」イコール「尊い」という等式が、どういう根拠で成り立つのでしょうか。私という人間は確かに世界でただ一人だとは思いますが、「自分という人間はこの世でただ一人だから尊い」などとはとても実感できません。「ただ一人である」ことが、私という存在の尊厳を実質的なものにしてくれるとは、どうしても思えません。むしろ、「私一人いなくなっても、世の中は何も困らない」というほうが実感できます。

そもそも、石ころからゴキブリから人間まで、この世は「オンリーワン」だらけではありませんか。群れるサンマの一匹をとっても、厳密にはオンリーワンです。「オンリーワン」イコール「尊い」という理屈が通るなら、石ころもゴキブリもサンマも人間と同様に尊いということになってしまいます。

「いや、ゴキブリやサンマはどれもみんな同じに見える。しかし、人間は違う」と言われるかもしれません。しかし、ゴキブリやサンマがしゃべれれば、「人間だってどれも同じに見える」というにちがいありません。かつて映画で見る外国人は、私には同じ顔をしているように見えましたが、外国人にとっても日本人はみな同じような顔に見えることでしょう。外国人と接する機会が増えると、確かに個々人の違いははっきりしてきます。それはサンマやゴキブリについても同じだと思います。

「人間をサンマやゴキブリと同じように扱うな」と言われるかもしれません。そのとおりです。私は、人間には適用できて、サンマやゴキブリや石ころには該当しない「尊い理由」、すなわち人間が人間であるがゆえに尊い理由を探してきたのです。でも、「オンリーワン」は人間に限らず、何にでも当てはまってしまいます。

こんなことも考えてみました。「親にとって、わが子は他に代わるものがないただ一人の存在だから尊いのではないか。他に子供が何人いても、一人一人がオンリーワンの特別な存在だ」と。しかし、子は他に代わるものがないから尊いのではないと思います。もし仮に代わるものがあったら、子は尊くなくなってしまうのでしょうか。たとえ代わるものがあったとしても、尊いのではありませんか。子は、親にとって「オンリーワンの特別な存在」ではなくなったとしても、尊い存在であることに変わりないと思います。

もし「私」という人間が二人いたら、「私たち二人」の尊さは半減してしまうのでしょうか。また、もし「二人の私」のうち一人が死んだら、生き残った「ただ一人の私」はオンリーワンゆえに尊さが増すのでしょうか。そんなことはないでしょう。二人のときも一人のときも、人間である限り、二人とも同じように尊いのではありませんか。

オンリーワンだから人間は尊いという理屈は、同規格、同品質の大量生産時代を体験した現代人が作り出した幻想ではないかと思います。現代は、誰もが同じ教育を受け、同じテレビや新聞を読んで同じような発想をし、同じ商品を食べたり身につけたり使ったりし、そして誰もが同じように扱われてしまう時代です。それゆえ人々は、他者と差異をつけることや個性が際立っていることを重視するようになりました。しかし、より個性的であれば人間の質や価値が高くなるのではありません。そう思い込んでいる人はその人の錯覚です。個性が乏しくても皆と似通っていても、尊いものは尊いのです。

私などは、人々が他者とは異なっていることを強調して自分の存在の尊さを確認したがることが、逆に不思議に感じられます。個性的で独特なオンリーワンであることがそんなに尊いことなのでしょうか。私は、むしろ互いに似ていることにこそ価値をおきたいと思うほどです。紙切れに過ぎない一万円札に価値があるのは、互いに同じだからです。同一性を失ったら、偽札として価値をなくしてしまいます。人間も互いに異なっている面よりも、共通している面にこそ価値があるのではないのでしょうか。

聖書もまた、人間ひとりひとりがオンリーワンで個性的だから尊いのだとは言っていません。創造主なる神がイスラエル民族に対し、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と語っておられる箇所があります(イザヤ43・4a)。ここは人間の尊厳を語る箇所としてよく引用されます。しかし、イスラエルがオンリーワンだから尊いのだ、とは書かれていません。バプテスマのヨハネはむしろ、「神は、この石ころからでもアブラハムの子孫(イスラエル民族)を起こすことがおできになる」(マタイ3・9)と語っています。自分たちを特別だ(オンリーワンだ)と考えて思い上がるなというわけです。では、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」理由は何でしょうか。それは、その言葉の後に記されています。「わたしはあなたを愛している」(4b)。神は「あなた」が尊いから愛されるのではなく、神が「あなた」を愛されるから尊いのです。後で述べますように、愛に尊さを生み出す力があるのです。

なぜ神は「あなた」を愛されるのか。決してオンリーワンで特別で個性的で独特だからではありません。神が「あなた」を愛される理由は「あなた」の側にあるのではないのです。愛の動機は神の側にのみあります。つまり、神は「あなた」がオンリーワンで特別であろうとなかろうと愛されます。「なぜなら神は愛だからです」(Iヨハネ4・8)。

繰り返していいますが、人間が思いついた思想や理屈で、人間は尊くなるのではありません。自分の理屈で自分の命の尊さを根拠づけても、それで尊さが実質的なものになるのではありません。論理的であっても筋が通っていても、現実であるとは限らないのです。