?数字は人間の尊さを決めない

◆数字は人間の尊さを決めない
 冒頭(?)に挙げた女子学生の問いかけに対して、何人かの人が解答を寄せておられましたが、その中に五〇歳の会社員の方のこういう意見がありました。

「誰でも(先祖を)わずか三三代さかのぼれば八五億八千九百九十三万四千五百九十二人につながる。その中には優れた人たちがいただろう。そのすべての人の命の影響が確実に一人一人の体に伝わっている。自殺とはその人々の影響を消すことである。また、将来自分から出てくるかもしれない優れた人材を消すことになる。人間は過去と未来をつなぐ架け橋として尊い存在である」(要約)。

これは日本人の心情に訴える「論理」です。しかし、この解答があの女子学生を満足させたとは思えません。実際、この解答は「死ぬな、人間には生きる義務がある」という激励にはなっても、なぜ人間の命は尊いのかの答えにはなっていません。その理由をいくつか示しましょう。

まず第一に、人の命を数字に還元し、その数が大きければ価値があると考えていることです。八五億という数字に圧倒されそうになりますが、人の命は数字で量っても意味はありませんし、量れるものではありません。命の尊さが数字で左右されるのなら、人間の尊厳には個々人で差が出てきます。たとえば、百人の人から愛される人と、一人の人からしか愛されない人とでは、前者の命のほうが尊いということになります。また、より多くの社員を抱えて彼らの運命を握っている社長ほど、人間として尊いということになるでしょう。人の命の尊さを数量の問題にすることは、逆に命の尊厳をおとしめることになります。本当に尊いものは数では量れません。

第二に、循環論法に陥っていて、命の尊厳の実質がどこにも見つかりません。たとえば、「私」の命の尊さは過去や未来の人々に依存していることになりますが、逆に過去や未来の人々の命の尊さは「私」に依存しているとも言えます。つまり、尊さを互いに依存し合っているのであって、「私」が一個の人間として尊いという、いわば「尊さの実体」はどこにもないのです。先祖の尊さは「私」にかかり、「私」の尊さは子孫にかかっているというのは、まるで「ネズミ講」の発想です。「尊さ」を「儲け」に置き換えてみればわかります。こうした実体のない「ネズミ講」は最後には必ず破綻するようになっています。

第三に、人の命の尊さに高低を付けていることです。「その(先祖の)中には優れた人たちがいた」「自殺は将来の優れた人材を消す」とは、優れた人はその人自身で尊く、そうでない人は将来優れた人を出すかもしれないから尊いに過ぎないと言っているのにほかなりません。

第四に、ドーソンの「遺伝子進化論」思想に立っていることです。ドーソンは、「人体は遺伝子が進化するための乗り物にすぎない、つまり主体は人間ではなく遺伝子である」という説を唱えました。「八五億人の影響を受けている」のは、「私」自身というより遺伝子であり、「私」が子孫に渡していくのも遺伝子です。「私」は過去と未来の「遺伝子の架け橋」に過ぎません。これでは、逆に人間存在の尊厳を損なうことになります。

私は最初に、これは日本人の心情に訴える「論理」だと述べました。というのも、この男性の発想の背景には、日本人の身についた習俗である先祖崇拝があるからです。彼は、自分の存在の尊さは先祖から切り離せないものだと考えています。また、先祖と子孫を切り離してはならないとも言っています。つまり、「私」の存在価値は先祖と子孫をつなぐことにおいて初めて成り立つということです。それは、逆に言えば、子孫を残さなかった人の命の尊さは半減するということです。

以上、祖先からも子孫からも切り離された「私」という、一人の人間の尊厳の説明にはなっていないのです。