自分を低くする者が一番偉い

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」(新共同訳マタイ18章3~4節)  子供のころ、指の力が足りなくて、鍵を開けることができなかったことを覚えています。親に開けてもらうしかありませんでした。今でも、教会の鎧戸を開けるときに、ふと思い出します。町に出かけたくても、ひとりではバスに乗ることもできませんでした。お金も地理感覚もなかったからです。親に連れられて教会に来る子供たちを見ていて、そんな昔を思い起こします。  できない自分の自覚と、親への信頼、それが子供の姿です。  大人になると、いろんなことができるようになります。同時に、その能力を人と比べるようにもなります。計算力、記憶力、言語力、思考力、表現力、運動力など競い、それを数値化して、現代の産業社会における能力を計量します。それがそのまま人間の存在価値にもなります。それで優越感や劣等感を持ったり、高慢か卑屈になったりします。こうして、子供の心を失ってしまうのです。  しかし、主イエスは人に、子供の心を求められました。主はこの世の基準では人を評価されません。信仰とへりくだりと、信仰の行いだけをご覧になりました。 使徒たちもそうです。能力で自分をも人をも量ることはせず、高慢にも卑屈にもなってはいけません。彼らが価値として求めたのは、信仰によって結ばれる「御霊の実」でした。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22、23)です。これを基準にして量られるなら、誰も自分を誇れません。「自分を低くする」ほかないのです。自分を低くしてはじめて、「神の国」の住人です。自分を低くしてはじめて、人間の能力も「神の国」で役に立つのです。でなければ、どんな能力も「ちありあくた(ゴミ)」(ピリピ3:8)です。 「天の御国では、いったいだれが一番偉いのか」と子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。神の国では、「自分を低くする者が一番偉い」ことを忘れてはなりません。