「信仰と愛の歴史」エペソ1・15,16

「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。」(エペ1・15、16)

獄中にいるパウロは、小アジアのクリスチャンたちの情報を聞き、喜び感謝しています。パウロは彼らの何について感謝しているでしょうか。彼らから何かをもらったからでしょうか。教会が数的に成長したからでしょうか。奇跡が起こったからでしょうか。そうしたことも感謝すべきことでではあります。しかし、ここでパウロが感謝しているのは、彼らのキリストに対する「信仰」と聖徒に対する「愛」についてなのです。パウロがもっとも価値を置いていたのは、いつまでも残る「信仰、希望、愛」でした(Iコリ13・13)。パウロは常にこの三つの基準で判断しています。 私たちも、単に目の前の好ましい出来事について感謝するのではなく、そこに表わされている信仰や、動機となっている愛を認めて感謝すべきです。  

たとえ奇跡的なことが起こっても、そこにイエスに対する信仰と愛が認められるのでなければ何の意味もありません。成績が良くても、仕事で成功しても、健康であっても、そこに信仰と愛が働いているのでなければ無意味です。すべてが消えたとき信仰と愛が残っていなければ、健康であったこと、知識があったこと、経済的に豊かであったことは何の役にも立たないのです。

あなたの半生記を書くとして、大きな出来事だけを綴った半生記と、信仰、希望、愛が表された出来事だけを集めた半生記とでは、まったくちがったものになるでしょう。実際、人間が人間の目で価値判断をして綴ってきた世界史と、神が神の目で綴られた世界史(聖書)とはまったく異なっています。前者では支配者が名をあげますが、後者ではアブラハムやパウロといった一遊牧民や市民が名を残します。前者で価値あるものが、後者ではまったく価値のないものになってしまいます。忘れてはならないのは、主は信仰、希望、愛を視点にして綴った半生記や歴史だけをよしとお認めになることです。

ですから、パウロはクリスチャンたちの信仰と愛を聞いて感謝し喜んだのです。私たちもどんな小さな働きをなすにても、そこに信仰と愛をこめていかなければなりません。