クリスチャンになっても、なぜなお罪に誘惑されるのか。なぜ自分の願うままに正しいことや良いことを行うことができないのか・・・確かに、この問題で悩むクリスチャンは少なくありませんし、クリスチャンではない人たちがクリスチャンを見てつまずく原因でもあります。私はこう考えています。
?心の空虚が満たされれば十分
私がクリスチャンになる決心をしたのは、完全な人間になりたいからではなく、何としても空虚感から解放されたかったからです。人間として生を受けたかぎり、存在に尊厳と価値を感じ、意味と目的を確信して生きたいと願ったのです。そして、クリスチャンとしての喜びは、キリストが私の心の空洞を満たしていてくださることにあります。ですから、たとえ罪を犯さない人間になれたとしても、心の空洞がキリストによって満たされないのなら喜びはありません。逆に、罪を犯す弱さはあっても、空洞が満たされているなら、喜びは去らないのです。罪の誘惑がなく心が平安でも、満たされていないなら、その平安は空虚です。
?常にキリストに信頼して生きるため
また、クリスチャンになってもなお不完全なのは、常にキリストに信頼して生きるためです。この地上で罪を犯さない人間に造り変えられたなら、私はもはや救い主を信頼する必要がなくなってしまいます。主を信頼しなくなることの方が恐ろしいことです。罪の誘惑との戦いの中で、共におられるキリストがより身近に感じられます。
?謙遜に主に仕えるため
そして傲慢にならないためです。もし完全な人間になれたなら、自分の力を過信し、目に見えない主に謙遜に仕えなくなるかもしれません。最初人アダムがそうでした。
?キリストを待ち望むため
しかし、やがて終わりの時が来て、キリストと同じ栄光の体に変えられ、完全な者とされます。その日はまったき喜びの日です。今の不完全さは、その日を喜びにしながら待ち望むためです。信仰は、祈りつつ待ち望むことに躍動があります。
不完全であるがゆえに、神の恵みがより強く深く感じられます