真価が問われる時代

 日本のような小さな国の繁栄は長く続くものではありません。ジャパン・アズ・NO.1といわれたのは「今は昔」。今や政治経済は三流、教育・大衆文化は四流と言われています。老人から赤ちゃんまで一人400万円の借金を負い、かつてのような勝手し放題の贅沢な生活は許されなくなりました。
ところが、贅沢だけは染み付いてしまっています。心も体も平和で豊かで便利で自由な生活に慣れ切っています。キリスト教会も、平和で豊かな時代に甘やかされて、生温い信仰になっているのかもしれません。問題は、かくもなまってしまった体と心をどうするかです。

忍耐が求められる時代が近づいていると思います。少なくともその覚悟はしておいたほうがいいでしょう。礼拝で交読するIコリント13章は、「愛はすべてを我慢し・・・すべてを耐え忍びます」と語っていますが、私たちに真の愛があるかどうかが試されることになるでしょう。難しい時代にこそ愛と信仰の真価が問われるのです。太平洋戦争に敗戦した時は、「苦しみの時代の終わり」でしたが、今は「楽な時代の終り」です。無目的、無責任に生きて来た日本人は忍耐を発揮できるでしょうか。

人間、希望なしには困難に耐えられません。しかし、希望の光が少しでも見えているなら耐え抜けます。これまで日本人は目に見えるものばかりに頼ってきました。しかし、これからは目に見えないところに希望を見い出していかなければなりません。ふつう目に見えないものは不安を与えます。けれども聖書は、逆に目に見えないからこそ希望を生むのであって「見えるものに対する希望は希望ではない」と教えます。見通しのきかない時代にいかに希望の光を見い出して耐え、神の時を待てるか。これからはキリスト者が真価を発揮できる時代でもあります。

先に引いた「愛はすべてを我慢し・・・すべてを耐え忍びます」の「我慢」と「忍耐」の間には、「すべてを信じ、すべてを期待し」が入ります。信じ期待することが我慢と忍耐を支え、我慢と忍耐が希望を実現するのだと励ましているのだと思います。

(2004-3-22)