以前、アメリカの新聞に、日本人なら誰もが知っている女性の顔写真が載ったことがありました。目が大きく彫も深いので、欧米でも美人として通用すると思われていました。ところが、アメリカでは並みの人で、美人とは評価されませんでした。目が大きく彫が深いだけでは美人の条件にならなかったのです。
先日の朝日新聞によると、本来日本美人の条件とは「ふっくらした頬、ぷっくりした唇、高すぎない鼻、バランスのいい大きさの目」でしたが、戦争に負けてからは「高い鼻、くぼんだ大きな目、とがったアゴ、(長い足)」になったのだそうです。それにしても、欧米人のようでなければ美人ではないと思うのは滑稽です。しかも、その欧米風美人が本場の欧米では美人とは評価されないのですから、もはや滑稽を通り越しています。
そもそも、外貌に限らず、他民族の基準で自国民を評価するのはおかしなことです。自分を絶対的に評価する絶対不動の基準をもたない日本人の悲しさでしょうか。日本人が日本(アジア)人として造られている意義に確信がもてないのです。福沢諭吉の「脱亜入欧」論や川端康成ら文人の「日本語を廃して国語をフランス語、あるいは英語にすべきだ」という主張もそうでした。そうした欧米コンプレックス、アジア蔑視は、自分の創造主を知らないことが大きな原因だろうと思います。(もっとも、最近はアジア美人が回復し、「黒髪、細くて切れ長の目」の人が美しいと言われているそうです。欧米風美人に飽きただけのことかもしれませんが。)
ところで、イエスの時代、パリサイ人は先祖たちの作った習慣・規則を人々に押し付けていました。しかし、キリストは「あなたがたは神の言葉を基準として生活しなさい」と、自ら人間の教えには縛られない行動をされました。それはパリサイ人たちの怒りを引き起こしましたが、「彼らのことは放っておきなさい」と動じられませんでした。
自分の創造主と正しい関係を築いていないと、人間が作った基準に縛られて不自由になります。この世の価値観で傲慢になったり卑屈になったり、不当な優越感を持ったり劣等感を抱いたりします。「人間が作った基準やこの世の価値観のことは放っておきなさい」という態度で、キリストのように飄々と生きたいですね。
(2004-3-29)