錯覚してませんか

  今や、携帯やコンピュータなしでの生活は考えられなくなってしまった感があります。しかし本当は、それらがなくてはならないと思うのは錯覚で、十分豊かに生きられます。それなくしては効果的なコミュニケーションができないと思うのも錯覚です。 ある雑誌に、素敵なデートするためには、「〇〇ブランドのスーツやネクタイはそろえておきたいもの。しゃれたレストランも数件は通い慣れておいたほうがいい。会話のためには、時事や文学、映画、外国語の知識も蓄えておいたほうがいい・・・」とありました。そうしたものを楽しまれたらいいでしょう。。しかし、それらは人と心を通わせるためになくてはならないものではありません。そう思うのはやはり錯覚です。

 人間、人を慰め励まし、安らぎと希望を与える暖かな会話さえできれば、それでいいのです。携帯やコンピュータを使いこなせても、海外体験があっても、高級レストランに通いなれても、それだけで暖かな交わりができるわけではありませんし、時事や文学や外国語の知識を蓄えても人の心を励ませるわけではありません。人に認められ、気に入られ、愛されて幸せになりたいと思って一生懸命得ようとしているもののほとんどは、実際にはなくても大丈夫なものが多いのではないでしょうか。もちろんあって悪いわけではありませんし、それなりに意味はありますし、活用されたらいいでしょう。でも、なくてはならないものではないのだということはわきまえておくべきだを思います。

 さて、GCCは聖書を読み祈ることを大切にしています。それを習慣化すれば、それだけ日常の会話が豊かになり、思索も深まります。聖書の言葉を覚えて、電車やお風呂や布団の中で思い巡らしていると、思わぬ知恵の発見があります。二つでも三つでも聖書の中の興味深いエピソードを自分が体験したかのように話せるようになったら、どんなに人を励ませることでしょう。聖書はすごいと驚かされます。

 日本人クリスチャンが韓国に旅をして、列車で知り合った韓国人クリスチャンと聖書を通して会話を楽しんだという話を聞いたことがあります。双方とも聖書によく親しんでいたので、互いに聖書箇所を示して気持ちを伝え合うことができたというのです。クリスチャンは旅行に出かけるときは、大なり小なり聖書は必須携帯品です。一冊の聖書があれば、十分豊かに暮らせるのです。

(2004-5-10)