人生にエラーは普通

スポーツはエラーで成り立っています。たとえば野球。高校野球にはエラーがつきものですが、プロ野球だってエラーだらけです。ただ数字に出てこないだけです。

  まず投手は1試合に100球以上投げますが、そのうち思い通り投げられなかった投球はみなエラーといえます。その日の調子が良くても、半分ほどがエラーではないでしょうか。もちろん打たれたヒットや四死球は投手のエラーといえます。打者が見逃したり打ち損じたりして、結果オーライというエラーもあるでしょう。打者の方もバットをイメージどおりに振れず、会心の当たりができない場合はエラーです。意図的でないファウルや空振り、絶好球を見逃すこと、アウトになることはエラーです。結果オーライのヒットも実はエラーです。盗塁失敗は走者のエラー、成功は投手、捕手、野手のエラー。野手も落球、暴投だけでなく、位置取りや送球や状況判断などでエラーを繰り返しています。監督も何度も采配エラーをしているはずです。試合はそもそもエラーで面白く進んでいくのです。投手は全ボールを完璧に投げ、打者も全ボールを完璧に見極めて打ち、野手も打球を完璧にプレーをしたとしたら、コンピュータで予測できるゲームになって、つまらない試合になることでしょう。観客も選手の一生懸命のエラーなら赦せます。

 同様に、私たちの人生もエラーで成り立っています。人生とはエラーの連続です。クリスチャンの行いも不完全で、エラーに付きまとわれます。しかし、そんな行いでも忠実を意図したのであれば、純粋な信仰を表現することはできます。しかも、エラーに満ちた行いでも、クリスチャンは最終的には勝利を収めることが約束されているのです。

  主は言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16・33)。「患難」を「エラー」と替えて読んでください。

(2004-9-26)