名を残す?

 今日は東京オリンピック40周年記念日です。あの頃と今では、オリンピックの有様と記録はずいぶん変わりました。
今年のアテネオリンピックではドーピング検査に引っかかりメダルを剥奪される選手が相次ぎました。しかし、「5年後に死ぬとわかっていても、金メダルが取れるならドーピングをするか」というアンケートに、アメリカの運動選手の52%がイエスと答えたそうです。どこの国の選手でも誘惑を感じることでしょう。それにしても、寿命を縮めてまでも金メダルを欲しいか、そんなに人の賞賛が欲しいか、と私などは思ってしまいます。金メダルや賞賛はそんなに価値があるものなのでしょうか。勝利の喜びといってもそのときだけのことであり、賞賛を浴びるといってもやはり一時的であり、名前が残るといってもやがて多くの名の中に埋もれていきます。ノーベル賞でさえもそうです。たとえば日本の受賞者12人全員の名前が言えますか。ましてやわれわれ普通の人が地上で得られる賞賛や栄誉はたかが知れています。
「闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(Iコリ9・25)。
運動選手たちは朽ちる金メダルや一時の賞賛のために筋肉増強剤を摂取することを願います。でも、クリスチャンは朽ちない栄光の冠を得るために戦うのです。そのためになんとしても聖霊に満たされたいと願うのは当然ではないでしょうか。

(2004-10-10)