快適な生活

 作家の中野孝次氏は、テレビ、電話、冠婚葬祭など余計なものを排除しながら晩年を送りましたが、それでも捨て去れないものが酒の楽しみでした。午後は間食せず水分も控え、体調の下拵えをしながら、日が暮れたときのことを思って心をおどらせ、そして犬たちをはべらせて独り酒の至福の時を味わったそうです(天声人語919から)。

独り酒の至福を高めるために禁欲の午後を過すというのは、見上げた根性だと思います。しかし、私には理解できない世界です。まず、酒のための禁欲というのがわかりません。私はコーヒーは好きですが、その味わいを高めるために半日何かを絶とうとは思いません。鮨は大好物ですが、夜豪華な鮨が待っているとしても、昼を抜いてよりおいしく食べようとも考えません。飲食自体の味わいにそこまでの価値を認めないからです。「独り酒の至福を高める禁欲の午後」というのは、空虚にしか感じないのです。

もう一つは「独り」です。虚無的な生活をしていた若い時は「独りの楽しみ」を大事にしていました。その頃なら中野孝次氏の晩年は理想と思ったかもしれません。しかし、クリスチャンとして生きるようになってからは、飲食も他の楽しみも人と共に味わうことに喜びを感じるようになりました。

パウロは「酒に酔ってはいけません・・・御霊に満たされなさい」と(エペソ5・18)と命じています。中野氏が「夕べの独り酒」のために禁欲した以上に、「神の国」や「聖霊に満たされること」を思って心をおどらせ、「聖徒の交わり」の喜びを深めるために、何かをがまんし、心を整える毎日を送りたいと思います。あなたは何をがまんしますか。

(2004-10-17)