私は惨め

 ときどき、いやたびたび「自分は惨めだなあ」と思います。そのたびに使徒パウロの「私には、自分のしていることがわかりません。・・・・私はほんとうに惨めな人間です」(ローマ7・15〜24)という歎息を思い出して、慰められます。彼のような信仰の勇士が「自分は惨め」と言うなら、私がそう思うのは当然です。しかも、パウロは「兄弟たち。私のようになってください」(ガラ4・12)と言っているのですから。

 しかし、自分の惨めさがわかればわかるほど、そんな私を憐れみ私の身代わりに十字架上で惨めさを味わってくださったキリストの愛が身にしみます。
パスカルは「自己の悲惨さを知らずに神を知ることは傲慢を生む。神を知らずに自己の悲惨さを知ることは絶望を生む」「自己の悲惨さを知るのは悲惨なことであるが、人間が悲惨であることを知っているのは偉大である」「神と自己の悲惨を同時に知ることなしには、イエス・キリストを知ることはできない」(パンセ)と語っています。曽野綾子さんも「世の中で度外れの楽天家というのは、信仰と関係なく生きている人である」(「愛と許しを知る人びと」)と書いています。神を知らない楽天は悲惨そのものということでしょう。

 たいていの人が自分は弱い、ダメな人間だと思います。神を知らない人が口する「私はダメだ」には絶望の響きしかありません。しかし、神の愛と恵みを知っている人の「私はダメだ」には、「でも主はそんな私をも・・・」という感謝と希望があります。失敗したり落ち込んだりしたときに、「私はダメな人」と口をついて出そうになったら、パウロのように、「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死の体から、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神の感謝します」(ローマ7・24、25)と口に出しましょう。

(2004-11-14)