残るもの

  国際通貨基金(IMF)によれば、先日死去したアラファト・パレスチナ自治政府議長は、世界第9位にあたる42億ドル(4500億円)もの財産を残しています。彼は34歳年下のスーハ夫人に毎月10万ドル(1060万円)以上の送金をし、パリで優雅な生活をさせていたそうです。貧困と失業に喘ぐパレスチナにあって、どうしてこんなことができたのか不思議です。現地では、崇拝の声とともに、国際社会から集まる支援金を私物化し貧民に施さなかったことに対する怨嗟の声もあるようです。

  「一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである」(ジェラール・シャンドリ)。そのとおりだろうと思います。

  ヨッパのタビタ(ドルカス)が病死した時、やもめたちは「ドルカスが・・・作ってくれた下着や上着の数々を」見せて、ドルカスの愛の豊かさをペテロに語ったとあります(使徒9・39)。与えたものが残ったわけです。

 韓国のあるクリスチャン作家は、不治の病で余命数か月と宣告されたとき、自分の全財産を処分し、教会に捧げたり人々に分け与えたりしました。しかし、後で誤診だということがわかりました。さて、彼女はどうしたか。主が、思い切って財産を捧げ与える機会を用意してくださったのだと感謝しました。こんなことでもなければ、集めたものを思い切って捧げ与えることはなかっただろうと思ったからです。捧げた彼女の心に永遠の命の喜びだけが残りました。

  私たちには何が残るでしょうか。与えた愛と希望が残るのだということを心にとどめたいと思います。キリストが処刑されたとき、財産も書物も残りませんでした。ただ十字架の愛と復活の希望だけが残りました。それが新しくスタートする教会のすべてでした。

(2004-11-21)