人間にとって存在しているものは、必ず名前をもっています。名前がないものは存在していないも同然です。何か新しいものが見つかれば、必ず命名されます。 人は、自分の名を付けることはできません。生まれたとき、親か誰かに名付けられます(名前変更は可能ですが)。しかも、自分の名は、他者に使われるだけです。私は、「私」でしか自分を語れません。つまり私は、「川端光生は〇〇です」「光生が〇〇します」とは表現できないのです(する人もいますが)。 ところで、創造主は、最初の人アダムに「あらゆる生き物を支配せよ」(創世記1:28)と命じられました。アダムはあらゆる生き物をどのように支配したか。それは、名付けることによってです(2:19)。神がアダムに名をつけさせたのです。アダムは妻にも「エバ」と名付けています。ゆえに、男が女を支配するのです。親も子に名付けることで、子を支配します。 ただし、「支配する」といっても、力づくで支配するのではありません。神は人を支配されます。その支配の仕方は、愛と義と慈しみです。人は神に似せて造られましたから、神の愛と義を真似(マネ)て支配します。つまり、愛し、正しく導き、守り、慈(イツク)しむのです。自分が名付けたものは、愛(イト)おしいではありませんか。 さて、聖書の神の名をご存知ですか。モーセが神の名を尋ねたとき、神は「私はある」という者である(出エ3:14)、と言われました。ヘブライ語で「ヤハウェ」と発音するようです(英語ではYHWHと表記)。神がご自分で名乗られたであって、人間が名付けたのではありません。神が人間を支配されるのですから、人間が名付けたら冒涜(ボウトク)です。人間によって名付けられた神々はすべて、人間の支配下にあることになります。それは人間に保護されている非力な神々です(つまり存在しない神々)。 聖書の神は、みだりに神の名を唱えることを許しません(十戒の第三戒)。それは冒涜です。それゆえ、私たちは神の名をみだりに唱えませんが、神の名を知ってはいます。神は、私たちにとって、存在される方だからです。 (村岡晉一『名前の哲学』講談社選書参照)