生(ナマ)の礼拝を捧げる

「私」とは誰か。それは、コンピュータ(スマホ)の中の私。そこに記録された文章、メール、写真、「いいね」を押したものなどで出来上がっている私です。現実の生身の私とは別に、もう一人仮想の(バーチュアルな)私がいるのです。

 その私だけではなく、他人によって捏造(ねつぞう)された私も存在しえます。自分の写真や動画がネットに上げられていると、それを利用して全く別人格の私が作られて、自分の知らないうちに広がる、ということが、今起こっています。

生身の私より、コンピュータに記録された私の方が、本当の私となってしまう、という恐ろしい時代です。

 残念ながら、キリスト教会においても、「仮想のキリスト」が捏造されています。体をもって復活したキリストではなく、単に信者の心によみがえっただけのキリストです。聖書のままのキリストではなく、人間の理屈で受け入れやすく造り変えられたキリストです。その方が現代人には受け入れやすいからです。

 寿命の尽きたAIロボットを供養するお寺があります。木魚を叩きお経を読む僧侶もAIロボットでした。笑えません。私たちも、「生身の私」が「リアルなキリスト」を礼拝しているのではなく、「仮想の私」が「仮想のキリスト」を礼拝しているということになりかねないからです。

 今、私たちはオンライン礼拝に移行し(聖書的確信でそう決断しました)、生身の体で集まって礼拝ができないでいます。しかし、インターネット上に「仮想の教会」を作ったのではありません。各家庭で「生身の私」が「現実に生きておられるキリスト」に礼拝を捧げます。

 仕事、勉強、家事などをしながらでは、真の礼拝は捧げられません。ながら礼拝は主に受け入れられません。もしそんな礼拝なら、医療崩壊ならぬ、教会崩壊を起こします。

 主に生かされている私たちが、今日も生きておられる主に、霊とまことをもって礼拝を捧げます。人々は目に見えないコロナウイルスを恐れますが、私たちは目には見えないが共におられる主を畏れ、礼拝します。