先週は、自己受容は罪人には不可能であると書きましたが、世のカウンセラーの中には、他者をもありのまま受け入れなさいと、教える人もいます。
自己受容でさえ無理なのに、罪人が他の罪人を受容することなど不可能です。それができるのは、やはりキリストのみです。それゆえ私たちは、自分ですべてを背負おうとはせず、主に委ね、とりなし祈るのです。そして、その人自身が主を信頼するように導くのです。自分でその人のことを何とかしようとしたら、やがて自分自身が潰れてしまいます。自分も罪人、相手も罪人であることを忘れてはなりません。
でも、人のありのままを受け入れられなくても、ありのままを「理解」することならできるのではないでしょうか。たいていの人が理解されたいと願っているので、それだけでも助けになります。
ところが、私はこれも簡単ではないと思い知りました。というのは、相手のありのままを理解するのではなく、私の体験や思考の枠組みで勝手に相手を「解釈」してしまうからです。こちらの解釈で応答すれば、当然、相手を苛立たせることになります。
そこで、私は相手の話を聞いたら、まず「あなたの言いたいことはこういうことですね」と確認して、応答しようと決めました。しかし、これも決めただけで、一度も実行できたためしがありません。その場になると忘れてしまうのです。気づいたら、自分の「土俵」に持ち込んで「解釈」し、それで相手を理解したつもりになって語っています。これでは話がややこしくなるばかりです。何とも情けない話です(が、相手も私に対して同じことをします)。
こういうときは、まず自分の情けなさをありのまま認め、主が私とどう向き合ってくださっているか、顧みればいいのです。主は私のありのままを知っておられ、悔い改めた私を憐れみと慈しみで見ていてくださいます。主から理解されている、これが私たちの慰めあり、平安です。
いつも、この慰めと平安、そしてへりくだりから始め直すのです。