若く見える

「お若く見えますね」と言われると嬉しいですか。でも、この言葉は「本当に若い」人に向かっては使いません。年齢を重ねている人が若く見られる努力をしているときに、その努力を賛辞する言葉なんです・・・と、中高年の婚活をビジネスにしている人が語っていました。つまり、「若く見える」ことを追求している人をほめることばなのです。

恥ずかしながら、私も、似たようなことをしていることに気付きました。最近、使い始めたシャンプーは、「毛量感のある印象になる『新・サクセスシャンプー』」という類のものです。ドラッグストアで棚を見ていて、つい「出来心」で購入してしまいました。

「〇〇に見える」「〇〇という印象になる」ということは、「見えるだけ」「印象だけ」のことであって、本当はそうではない、ということになります。「立派そうに見える」とは、本当は立派ではない、「かわいいという印象になる」は、本当はそこまでかわいくない、「痩せて見える」は、本当はやせていない・・・・本当に立派な人、本当にかわいい人、本当に痩せている人には、使わない表現です。

現代は、「〇〇に見せる」「印象付ける」ことに価値を置く時代なのでしょう。

ところで、主イエスは、一部の律法学者やパリサイ人の偽善を批判して、こう言われました。「災いだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです」(マタイ23:27)。「白く塗った墓の美しさ」「パリサイ派的美しさ」は、偽善的な見せかけの美しさです。

ペテロはこう言います。「・・・着物を着飾るような外面的なものでなくむしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです」(Ⅰペテロ 3:3、4)。

外面を美しくしてはいけないというわけではありません。ただ、主が私たちに与えてくださるのは、「〇〇に見える」という見かけの美しさではなく、「心の中の隠れた人がら」の美しさだということです。