復活

  子供の時、不安に耐え切れず母に尋ねました。「ねえ、死んだらボクどうなるの。」  誰でも一度は心に抱く恐れです。母の答えは覚えてはいません。ただ、ボクの不安を解消してくれなかったことだけは確かです。小学校の先生も教えてはくれませんでした。中学校の校長先生の朝礼訓話にも出てきませんでした。不思議なことです。重大問題なのに。

大人はわかっているはずだと思っていました。でなければ、あんなに平気な顔をして毎日生きていけるはずがありません。この問題に答えを出さずに、のんきに食べたり飲んだり笑ったりできるはずがないのです。しかし、高校生になって、大人も確たる答えをもっているのではないと知りました。大学に入って自ら答えを求めましたが、科学にも哲学にも答えがないことを発見したのみでした。

  ゴールがどこかわからずにマラソンをすることが無意味なように、「死んだらどうなるのか」を知らずに人生を生きることは無意味、無価値です。百年前、18歳の学生藤村操は、天地万有は「不可解」の一語に尽きるとの遺書を残し、華厳の滝から飛び降りました。哲学者カミュは、そんな不可解な状態を「(魂の)病気」と呼び、あえて「病気」のままで生きるのだと言いました。いずれにせよ絶望です。

 「死んだらどうなるのか。生きる意味はあるのか。」人間として最も根本的な問い。この問いに答えを持たずに私たちは人生を始めます。生きる意味があるかないかもわからず人生を進めていきます。人間は必ず死ぬのに、死んだらどうなるのかも知らないというのは、不思議なことです。でも、これが生まれたままの人間の現実です。

  さて、今日は復活祭。2千年前、人間の魂が抱えるこうした苦悩に、創造主が「復活」という解決を示してくださったことを記念し祝う日です。復活は生と死をつなぎます。「キリストの復活」を知ることが、私たちに生きる意味と喜びを取り戻します。

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  「キリストの復活」はキリスト教にとって最も大切な教えであり、そして「キリストを信じる者の復活」の保証です。「科学の時代に復活なんて」と思われるでしょうが、現代でも数億のクリスチャンが信じています。

  もちろん私も復活を信じています。しかし、ふつうに科学の知識をもち、科学の有用性を認め、合理的に物事を考えますし、科学の世界では「復活」が起こりえないことも認めています。ですから科学の枠組の中で復活を主張するつもりはありません。ただ、現在の科学が描き出してみせる世界だけがすべてだとは信じないのです。たとえば平面の世界ではありえないことが立体の世界では起こるように、現在の科学が描き出す世界とは別の世界で復活があることを信じているのです。

  以前、NASAに「月に人を送り込む科学の力で、私の息子をまっとうな人間に造り変えて欲しい」という依頼の手紙を書いた母親がいました。もちろんできない相談でした。科学には踏み込むことができない領域があるのです。人間の魂に関わることがそれです。

  なぜ私は復活を信じるのか。それは復活のみが私の魂の重大な問題――空虚感、孤独感、罪責感、死の恐怖という「4つの闇」に光を与えてくれるからです。科学には復活がないので、この闇を解決することはできません。
復活は、今この地上で、「4つの闇」に縛られた「古い私」が死に、「新しい私」として生まれることを可能にします。「過去の私はもはや今の私ではない」と言えるようになります。もちろん肉の体は日々衰えます。しかし、「新しい私」は日々新たにされていきます(IIコリ4・16)。肉の体は死にます。しかし、永遠の命を受けた死ぬことのない体でよみがえります。私はこの復活に希望を置いているのです。そしてそれを保証するのが、2000年前のキリストの復活なのです。

(2005-4-3)