神のことを思い続ける

18年続けてきた週報のコラムを、今回で降ります。1000回という区切りまでと思いましたが、弁慶じゃあるまいし、数字にこだわらないことにしました。

 私は20代の中ごろから40年余り、毎月、毎週、毎日、あるいは不定期に、礼拝メッセージを含め、いろんな場で何かの文を書き続けてきました。書くためには、世の中の出来事、風潮、また私個人の身の回りのことなどを、聖書の言葉を通して理解しようと努めます。そのおかげで、日常的に心を主に向け、神のことばを考え続ける習慣が身に付きました。

 ところで、パウロが「絶えず祈りなさい」(Iテサロ5:17)と命じていますが、そんなことが可能なのでしょうか。祈りが、ただ座って目を閉じ、主に一方的に言葉を投げかけることなのであれば、不可能です。しかし、主と向かい合い、主の御言葉を学び、主の心に思いを巡らせることも祈りであるなら、可能です。実際ユダヤ教徒は、祈りをそのように考えていると聞きました。

 その意味で、私にとっては、書くという作業も祈り、さらには主への賛美、礼拝にさえなっていると感じるようになりました。

 御言葉の学び、祈り、賛美の間に、明確な境界線はありません。学びも祈り、祈りも賛美、賛美も学びになります。心が主に向かい、神のことを思っているからです。つまり礼拝になっているのです。

ただし、心が主に向かわず、学びのための学び、祈りのための祈り、賛美のための賛美なら、礼拝にはなっていません。自分のために、自分の好きなことをしているにすぎません。もし私が単に1000回という数字を目指してコラムを書き続けるなら、祈りにも、賛美にもならないでしょう。

何事も神と向かい合い、神のことを思いつつ行うなら、それは祈りとなり、賛美となります。仕事も家事も勉強もそうです。

水曜の「御言葉と祈りの時間」でメッセージをする方々、このコラムの執筆に加わる方々、またいろんな奉仕に携わる方々へ。日常的に主を思っていてください。きっと主からインスピレーションを受けると思います。