先々週、田原米子さんが天に召されました。
50年前、女子高校生だった米子さんは、新宿駅のホームから身を投げました。奇跡的に一命はとりとめましたが、両足片腕を切断し、残った右手も指の3本という体になりました。その後、キリストに出会い、新し人に造り変えられて、人々に生きる勇気を与える役割を担うようになりました。私も、大学生のころ、残った指を差し出して見せる米子さんの映画を見た記憶があります。
21世紀に入ってから、日本の年間自殺者は3万人を下らなくなってしまいました。「死ぬ理由もないけれど、生きる理由もないので死ぬ」というのが米子さんの自殺未遂の理由でしたが、その「虚無」「無意味」という空気は50年前にもまして時代を支配するようになっています。何も虚無的な言葉を口にしている人だけではありません。自分には仕事しかない、芸術しかない、研究しかない・・・それがすべてだという人はかっこよく響きますが、それを取ったら何も残らないと言うのなら、本当は、取らなくても何も残らないのです。賭け事や快楽におぼれている人たちや、「ヨン様」で忙しい中高年のおば様たちも同じことです。
「何を奪われても私には残るものがある。キリストとキリストが与えてくださった永遠の命がそれである。」そう言えるようになったとき、米子さんは人生に意味と目的をもてるようになりました。晩年まで多くの公立中学、高校で講演をして回り、残された3本の指を見せながら、生きる希望を語り続けられたそうです。
時代の空気に欺かれてはなりません。いっときの快楽に人生を奪われてなりません。私たちの人生には、学校でも社会でも教えられていない意味や目的や希望があるのです。
(2005-05-08)