エゼキエル書21章には、南ユダ王国への「最後の刑罰の時」が描かれています。主が、バビロンの剣をもって、この国を滅ぼされるのです。これを読んでいて、出エジプト直前に起こった、エジプト中の初子が殺されるという恐ろしい災いの光景を思い出しました。ユダ王国末期、これより激しい災いが王国に下されるのは、彼らが主の命令に逆らい続けたからです。
エジプトの初子が打たれた時、イスラエルの民は主の命令に従って、家々のかもいと門柱に雄の子羊の血を塗ることで、この災いが過ぎ越されました(「過越の祭り」の起源)。これになぞらえれば、王国時代の民は、過越の子羊の血を家の入口に塗ることを怠った、ということになります。主の命令に逆らえばどうなるかを無視したのです。
エジプトは、初子を失うという裁きにも拘(カカ)わらず、最強の軍隊を率いて出エジプトしようとするイスラエルを追いかけました。そして、イスラエルが乾いた地を渡ったその海で、水に飲まれて全滅してしまいます。裁きに会っても悔い改めない罪人を象徴するかのようです。
一方、出エジプトから約800年後、バビロン捕囚という主の裁きを経たイスラエルは、再び父祖の地へと帰って来ます。悔い改めれば土地が回復されるという、神の約束があったからです。たとい、わざわいを受けても、回復の道はモーセを通して神の民に示されていたのです。
裁きは、背きの罪を思い出させるためのものです。罪を思い出したら、悔い改めて主のもとに帰る。人がするべきことはこれだけです。かたくなな心には、これが簡単でないことを私たちは知っています。けれど、悔い改めも、主のもとに帰りたいという思いも、聖霊が私たちの心に投げ入れてくださるものです。
イスラエルでは先週、過越の祭りが祝われました。主イエスを信じる私たちは今日、主の復活を祝っています。神の命令を守れば与えられる、死が過ぎ越すという幸いは、神の御子が十字架上で死なれ、三日後に復活されることによって、 「永遠のいのち」という現実になりました。恵みとあわれみの神を、ほめたたえます。(Yak)