懲らしめ

  「中高校生の4人に1人が万引きはたいした犯罪ではないと考えており、低学年ほどその比率は高まる。」先日、そんな意識調査の結果が発表されました。今や、中学校、高校に近いコンビニや書店は潰れるという時代です。

  万引きで捕まっても、泣いて謝れば赦してもらえるという甘えを子どもに植えつけてしまった。大人は子どもの万引きを見つけても諭して赦すだけでは、子どもの方はそれに付け込んで平気で犯罪を犯す。その結果、より大きな犯罪に手を染める――と新聞にありました。確かに、悪に対して断固たる懲らしめをしない社会になったと思います。

  3000年前に書かれた聖書の箴言はこう教えています。

 「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる」(3・11)「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(13・24)。「望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ」(19・18)。

  ケガでも病気でも、痛みも熱も感じないとなれば、重大な結果を招きます。犯罪も同じです。自分の犯した悪を懲らしめられ相応の痛みを味わされるというのは、ありがたいことです。私も、多少理不尽な制裁を受けるのも悪くないなと思ったことがあります。それぐらいでないと自分の欠点や問題に気がつかなかったかもしれないからです。

  隠れた罪を犯していて何も懲らしめがないなら、恐ろしいことです。逆に、凝らしめを受けたら喜ぶべきです。悔い改める機会になってよかった、「死」に至らずによかったと。

  「望みがある」から主の凝らしめを受けます。「愛されている」懲らしめられます。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12・11)。

(2005-06-05)