■ 人生の最後を主に捧げた人、藤田嗣治(ふじたつぐはる)

藤田嗣治という画家がいました。まっすぐの前髪、丸眼鏡にちょび髭の風貌で知られ、女性や猫を題材にした絵で有名です。26歳で渡仏。当時日本では、黒田清輝に代表される印象派が主流でしたが、藤田はパリで訪ねたパブロ・ピカソに衝撃を受け、独自の手法と世界観を生みだしました。社交界でも人気、藤田の「フー」の音から「フーフー(調子に乗ったばか)」と親しまれました。第一次大戦後の好景気にも後押しされ、フランスだけでなくアメリカ大陸でも名声を得ます。

しかし、凱旋帰国した日本では、冷たい目線が待っていました。黒田を中心とする芸術界は、藤田の作品と成功を受け入れなかったのです。さらに第二次大戦中、藤田は日本軍に同行して戦地を描く「戦争画家」の道を選びます。そのことで戦後、「戦争協力者」とされ、芸術界では唯一、GHQの取り調べを受けます。嫉妬に支配された閉鎖的な芸術界、そして戦争責任をなすりつける日本。嫌気がさした藤田はフランスに移り、日本国籍を抹消します。

さて藤田は、晩年72歳でカトリックの洗礼を受け、最後の10年間はイエスを題材とした作品を描きます。最後の作品は、礼拝堂のデザインと壁画。80歳で製作を開始し、キリストの誕生から十字架、復活までを、90日かけて描き上げました。

彼は、このような言葉をテープに残しました。「この80年に戦禍も逃れ、人の誹謗にもめげず、こうやってここまで生きてきたことは何でござりましょう。全く天の神様のおかげだと信じております。その神様へ、お礼の気持ちで、小さなお御堂を捧げたい」。彼は礼拝堂の壁画に、十字架についたイエスを見つめる自分の顔を描きました。完成の2年後に天に召され、遺骨は礼拝堂に葬られています。 半ば追放された形で日本を離れた藤田ですが、その先に主イエスとの出会いがありました。日本への恨みがあっても不思議ではありませんが、彼の言葉はそれを感じさせません。苦しみを喜びに、嘆きを感謝に変えてくださる主が、確かにこの画家に救いの恵みを与えたことを感じます。御国で会ってぜひお話ししたい人のひとりです。(新田優子)