こんな小話を目にしました。
ロバとトラが、「草は青いか緑色か」で議論したが結論が出ないので、王であるライオンのところへ行き、裁定を仰いだ。「草は青い」と主張するロバに、「おまえがそう信じるなら草は青い」とライオンが言ったので、ロバは大喜びし、自分の主張にたてついたトラを罰することを願った。そこでライオンはトラに、三日間口を利いてはならぬと命じた。トラは「なぜ私を罰するのですか。草は緑色ではないですか」とライオンに訴えた。するとライオンは、「おまえは草が緑色であると現に見て、知っている。真実であると分かっていることを、いたずらに議論して時間を無駄にしたことと、それでこの私を煩わせたことへの、これは罰である」と答えた。
ロバは、何が真実であるかよりも、たとい間違っていても自分が正しいとされることを求める愚か者、とされていました。イエスに逆らった宗教指導者たちを思い出します。
では、トラは何を求めたのでしょう?ロバが真実を知ることをロバのために求めたのでしょうか。いや、トラもまた、自分の正しさが認められることを求めたのではないでしょうか。真実のためよりも自分のために議論したことを、王であるライオンは時間の無駄と、一刀両断に裁いたのです。
「草は何色か」はともかく、聖書やキリストについて人と議論したことがありますか?そんな時、気をつけないと私たちも同じように、「真理を主張する自分の正しさ」を証ししたくなるものなのだと思わされました。
民数記20章に、水を求めてモーセとアロンに激しく逆らうイスラエルの民が描かれています。モーセは、杖で岩を二度打って水を出しました。しかし主は「岩に命じて」水を出すようにと言われたのでした。それで主は、「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった」として、二人は約束に地に入ることができないと宣言されるのです。私たちが証しすべきものは、聖なる主お一人なのです。 真理も信仰も、主からの賜物。誇るべきものを間違えないことは大切ですね。(Ya K)