人はまず、「愛される」者として生まれます。親に愛され、祖父母に愛され、周囲の人々に愛されて育ちます。幼少期は他人を「愛する」ことを求められてはいません。人に愛されて喜ぶだけでOK、それで人を十分幸せにできます。そうして愛されるうちに、自分も愛することを覚えていきます。もちろん愛されないこともありますが、悲しみの中で「だからこそ人を愛すべきなのだ」と学びます。人は、「愛されるだけの子供」の身分から、「愛することの喜びを知る大人」へと成長を遂げる生き物です。
とはいっても、そんなにすんなりとはいかないかもしれません。愛されることに慣れてわがままで自己中心的になったり、愛されても人を憎んだりします。あるいは愛のない環境で育つこともあるでしょう。人は悲しい生き物だと思います。
だからこそ、十字架の愛に出会うことが必要なのだと思います。聖書はこう教えます。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Iヨハネ4・10)。神の犠牲的な愛、キリストの「敵を愛する」愛、それが愛の源です。
愛さねばならないとわかっていても、どうしても人を愛せないときがあります。そのような時には、無理に愛しようとがんばらず、まず自分がどれほど愛されたかを思い起こしましょう。愛されなかったことを数えず、親や家族や友人、そして神に愛された記憶をよみがえらせるのです。愛とは自分でゼロから作り出すものではなく、与えられ伝えられてきたものを自分のうちで増幅して、人に渡すものです。
愛することは大切ですが、神に愛された愛をそのまま受けとめ喜ぶことはもっと大切です。真実に愛することは、神の愛を知ることからしか始まらないのですから。