終戦60周年?

 朝日新聞の投書欄で、太平洋戦争の責任は軍部首脳や指導者にあるという主張と、いや国民全体にある、という論戦がなされていました。しかし、「誰に責任があるか」を論じて結論を出しても、問題を解決したことになるとは思えません。むしろ、原因を究明することこそが重要であると思います。

 日本では、社会や会社などで事件が起きた場合、責任者を特定して罰したらそれで溜飲をおろすという傾向があるように思います。陰で悪を行う人や憎たらしい人が罰せられると、確かにすっとします。『水戸黄門』のように悪人と善人が明確に分かれている世界であれば、それで済むでしょう。しかし、現実の世界は違います。責任者の首を切ったところで、根本的な問題の解決になっていないことは明らかです。根っこのところは変わらないわけですから、同じ問題を残すことになります。会社の不祥事でトップが責任を取って辞任しても、会社の体質が変わらない限り何も解決していません。政治の世界も同じです。

 キリスト者の故山本七平は、「日本はまだ太平洋戦争の反省をしていない」と言い残しましたが、私たちは終戦の夏を迎えるたびに悔い改めるべきだと思います。「私は善人だ。あんな残虐で愚かなことをする人間ではない」と考えてはならないと思います。平和で自由で豊かで、飢えも拘束も恐怖も知らない時代に生きているから、自己中心性や残虐性が隠され、善良そうに見えているだけかもしれません。
太平洋戦争のA級戦犯で絞首刑になった東条英機は、部下思いで周囲の人には尊敬される人物だったそうです。ナチの戦犯アイヒマンも、捕らえてみれば普通の人だったというのは有名な話です。私たちも同じ罪人であることを忘れてはなりません。

 私たちの戦いの相手は、人間の心の奥底にある罪の性質であり、それをそそのかすサタンです。見えている部分だけでなく、見えていない陰の部分にこそ十字架を立てましょう。