戦後60周年?

日本は自由な国といわれますが、実際には、言論においてタブーがあります。
1988年、当時の長崎市長・本島等氏(カトリック信者)は市議会で「天皇には戦争責任がある」という趣旨の発言を行ったために、右翼団体の執拗な攻撃・脅迫を受け、ついに銃撃され重傷を負いました。しかし、市職員や市民の「発言撤回要請」にもかかわらず、「自分の発言を取り消すことは、私の政治的な死を意味する」と態度を変えませんでした。キリスト信者として、殺されても嘘はつけないという信仰も通しました。

日本は法治国家ですが、脅迫がまかり通っている国です。少し社会的に発言すると、匿名の脅しの手紙や電話がすさまじいといいます。堂々と自分の名を明かし、筋道を立てて、冷静に反論することをしない国民です。そして、すぐに「非国民」「売国奴」「差別主義者」「アカ」などとレッテルをはり、罵倒するのです。
故山本七平は「日本は太平洋戦争の反省をしていない」という言葉を残しましたが、日本人の体質は今も変わっていません。愚かで無謀で無目的な戦争に国民が一丸となって突き進んだ戦前と、本質的には同じです。

戦前のキリスト教会は国家の圧力、国民の脅迫に屈し、会堂に神棚を祭り、天皇を「現人神」として拝みました。それを拒否することは命がけでした。しかし、日本人の体質が変わっていない限り、将来、同じことが繰り返される可能性は大です。

本島等氏は銃撃を受けたとき、「地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12・24)という覚悟と希望の言葉をメディアに伝えました。その信仰姿勢は、一般の人たちにも勇気を与えました。

信仰を守るとは私たちの真の命を守ることであり、そして豊かに実を結ぶことです。「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」(ルカ17・33)。日本人として、終戦60周年を悔い改めの(主に心を向け直す)ときにしましょう。